【Vol.238】知って得する、ちょっと差がつく トリビア・コーナー

トリビア研究家 末崎 孝幸

末崎 孝幸氏

1945年生まれ。1968年一橋大学商学部卒業、同年日興證券入社。調査部門、資産運用部門などを経て、日興アセットマネジメント執行役員(調査本部長)を務める。2004年に退職。Facebook上での氏のトリビア投稿は好評を博している

几帳面

几帳面

几帳面という言葉は室内でお姫さまなど貴人の座るそばに立て、間仕切りや風除けに用いられた家具「几帳」に由来する。「几(おしまずき)」は脇息の意。几の長い横木に「帳(とばり)」をかけたものが「几帳」である。

几帳の柱は、怪我の予防と装飾の意味から、角を丸く削るという細工が施されていた。この面を作る作業がたいへんに難しかった。ここから「几帳面」が「きちんと」という意味に転じたのである。几帳面な人でないとできない厳しい仕事だったのだ。

蛇足ながら・・・几(おしまずき)という苗字の人がごく少数います

『絆』(本来の意味は)

東日本大震災以降注目されるようになった言葉が『絆』である。この言葉の本来の意味は「馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱」である(広辞苑)。すなわち、絆とは束縛することを意味する。ここから、家族・友人などの結びつきを離れがたくつなぎ止めておく、という意が生じたのである。

私が「絆」で思い起こすのは曽野綾子氏の「絆はそれによって得をするものではない。相手のすべての属性を受け入れることだ。(中略)美点も難点もすべて受け入れることが、絆を大切に思う姿勢というものだろう。絆を求める心が、自分に何かを与えるくれる人を期待しているとしたらそれは間違いだ」という言葉である。いずれにせよ、生易しい言葉ではない。

あだやおろそか(にできない)

日本語には味わい深い言葉や表現が数多くある。「あだやおろそか」もその一つで漢字では「徒や疎か」と書く。「徒」は無駄や、実(じつ)のないことを言い、「疎か」は物事をおざなりや、雑に扱うことを言う。そういう意味ならば、味わい深い言葉とはいえないと言われそうだが、この言葉は後ろに「にできない」「にしない」という否定形がくることで、味わいのある表現に変わるのである。

亡くなった父母の写真、各種の資格証書、信頼できる友人関係など『徒や疎かにできない』と否定形にすることで、物を大切にする、いい加減には扱わないという意味になる。最近使う機会が少なくなったが、好きな言葉(表現)である。

右と左、どちらが上?

右利きの方が多いので「右が上」という人もいれば、王貞治もイチロー、そして大谷翔平も左打者だから「左が上」と主張する人がいるかもしれない。官位でいうと、日本では古くから左大臣が右大臣より上位に置かれた。これは中国の官制で左の方が上だったからだ。丞相が2人いるときは、左丞相が右丞相より上だった。これが日本に伝わって左大臣が上位とされたのである。

一方、「左遷」は降格であり、逆に人より優れていることを「右に出る」といい、「この分野においては彼の右に出る者はいない」と表現する。どうも決着はつきそうにない。

「左」「右」に人偏をつけると「佐」「佑」となる。「補佐」「天佑」などと使われ、どちらの例も「助ける」意だ。序列をつけるのではなく、「右」も「左」もお互い助け合っていきたいものである。

結局(の語源)

いろいろなことがあったうえで、最後に落ち着くさまを意味する「結局」とは、元々囲碁や将棋で一局打ち終える、ひと勝負終わることをいう。「結」はしめくくり、「局」は囲碁・将棋などの勝負の意。

また、物事の終わりを意味する「終局」も囲碁・将棋で対局が終わることから生じた言葉である。

囲碁・将棋を語源とする言葉は結構多く、「定石」「一目置く」「駄目」「岡目八目」「成金」「高飛車」「捨て駒」「将棋倒し」などがある。

姑息

本来「姑息」とは、一時のまにあわせ。その場のがれ(広辞苑)という意味である。「姑」は「しばらく」を意味し、「息」は休憩するという意味だ。つまり、「しばらくの間、息をついて休む」となる。ここから「その場しのぎ」となったわけだ。

しかし、姑息は誤用されて使われる場合が圧倒的に多い。すなわち、「卑怯」とか「ずるい」といった意味で使われている。今年9月、文化庁が行なった調査では本来の「一時しのぎ」で使う人が17.4%、「卑怯な」で使う人が73.9%もいたという(その他ほか8.7%)。

姑息