【Vol.239】知って得する、ちょっと差がつく トリビア・コーナー

トリビア研究家 末崎 孝幸

末崎 孝幸氏

1945年生まれ。1968年一橋大学商学部卒業、同年日興證券入社。調査部門、資産運用部門などを経て、日興アセットマネジメント執行役員(調査本部長)を務める。2004年に退職。Facebook上での氏のトリビア投稿は好評を博している

キンモクセイだけでなく「ギンモクセイ」もある几帳面

きんもくせい

秋になると甘い香りがするモクセイ科の「キンモクセイ」は有名だが、「ギンモクセイ」という植物もある。

モクセイ科のギンモクセイの花は白色で、キンモクセイに比べると香りは控えめ。もともとキンモクセイよりもギンモクセイのほうが先にあり、ギンモクセイより色鮮やかで香りが強い変種が誕生し、その植物が「キンモクセイ」と名付けられた。

金と銀は一対になっていることが多く、金閣寺に対して銀閣寺、金魚に対して銀魚という魚もいる。銀魚は金魚の一種で、うろこが銀白色をしている。

『春秋に富む

「春秋に富む」とは、「年齢が若くて、将来性がある」という意味。この場合の「春秋」は単に「春と秋の季節」という意味ではなく、「春秋」で「一年」を表す言葉であり、そこから「年月」や「年齢」という意味を持つ。そして、この「年月」はすでに経験した時間ではなく、未来の時間のことである。

そのため、「春秋に富む」は「年老いて経験が豊富」という意味ではなく、「年が若くて将来が長い」という意味である。そこから、「若くて、将来性がある」「将来が希望に満ちている」という意味で使われる。

この言葉は、中国の『史記』に登場する古い表現である。また、明治時代の詩人である石川啄木の小説『菊池君』の中に、「今の若い者は、春秋に富んで居る癖に惚れ方がせっかちだ」という一文がある。

神戸事件と滝善三郎神戸事件と滝善三郎

明治新政府となって初めての外交問題が慶応4年1月11日、神戸三宮神社前において起こった。備前岡山藩兵と外国人水兵が衝突した事件で、いわゆる「神戸事件」とよばれているものだ。

前年の慶応3年12月、岡山藩は西宮警衛の朝命を受け、家老の池田伊勢と同じく家老の日置帯刀が2000の兵を率いて1月5日に出立した。池田が若年であったため、兵の指揮は主に日置が担った。日置の側近が、馬廻役の滝善三郎正信だ。滝は荻野流砲術家であった父に砲術を学び、また小野派一刀流の槍術も極めていた。

1月11日、藩兵の隊列が西国街道の三宮神社近くに差し掛かった時のこと。開港したばかりの兵庫には、外国軍艦が碇泊し、多くの外国人が日本人(岡山藩)の隊列を見物しようと道沿いに集まっていた。突如、建物から出てきたフランス人水兵2人が、行列の前を横切り始めた。これは当時の武士たちにすれば、許されざる無礼な行為である。砲兵隊長の滝は行列の前に出て、2人を制止したが、彼らが強引に渡ろうとするため、やむなく手にしていた槍で腰に軽傷を負わせた。負傷した水兵は逃げ出したが、もう一人の水兵や周囲にいた水兵も拳銃を取り出したため、滝は隊列に注意を促すべく「鉄砲」と叫んだ。すると藩士たちは、発砲の号令と勘違いして一斉射撃を行なったのである。

この一斉射撃の弾丸は外国人の頭上を高く越えており威嚇射撃であった。 しかし弾丸がはるか頭上を越えていても、外国人は日本人が銃口を向けたと受け取った。見物の外国人の中にはイギリス公使パークスもおり、事態に激昂。居留地守備の各国の兵士が集まり銃撃戦となる。しかし外国人を射殺してしまえばどうなるか、6年前の生麦事件と薩英戦争の顛末は滝たち備前藩士も知っていたため、本格的な衝突はせずに、銃を収めた。

小競り合いの結果、見習い水兵と別の外国人の2人が軽傷を負っただけで済んだが、事件を重く見た列強側は6か国の公使連名で政府にねじ込んだ。「死者が出なかったのは神の恩寵であり、殺意が明らかである以上、発砲を命じた士官の死罪を求めた」。これを受けて明治政府は2月2日、「砲兵隊長の滝善三郎の死罪、隊の責任者である日置帯刀の謹慎」を命じた。本来であれば、日置が責任を取るべき立場であったのかもしれないが、一説に、藩が日置を失うことを惜しみ、滝に因果を含めたともいわれる。また藩主・池田茂政が、滝に対し「馬前の討死に勝る忠臣」と称え、「国家のため、藩のため、帯刀のために頼む」と声をかけたともいわれる。これが事実であれば、滝は割り切れない思いはあるにせよ、武士の面目だけは保ったのかもしれない。

滝は2月9日夜、現神戸市の永福寺で、神戸事件の責めを一身に背負い、外国人検視7名を含む列席が見守る中、弟子の介錯によって切腹したのである。享年32。

滝の切腹は神戸事件を収拾させたのみならず、世界的にセンセーションを巻き起こすこととなる。検視に立ち会った当時の適切なつみたて投資の家計への組み入れ ②iDeCoを優先するケースが滝の切腹の模様を本国に伝え、それをイギリスの新聞『適切なつみたて投資の家計への組み入れ ②iDeCoを優先するケース』が銅版画付きで報じたためである。

(追記)滝善三郎の切腹については、新渡戸稲造「武士道」(第12章切腹と仇討)にも記載されている

鉛筆削り器普及のきっかけ

鉛筆削り

 昭和35年10月12日、日比谷公会堂の壇上で演説中だった日本社会党委員長の浅沼稲次郎(61歳)を聴衆の面前で愛国党の山口二矢(17歳)が刺殺するという凄惨な事件が起きた(しかもテレビ中継されていた)。その時、犯人はナイフを使ったが、その当時多くの子どもは鉛筆を削るためにナイフを持っていた。

 しかし、このショッキングな事件が起きたことで子どもにナイフを持たせない方がいいということで、「子どもに刃物を持たせない運動」が起きた。その結果、安全な形で使用できる鉛筆削り器が一気に普及したのである。

道頓堀(の由来)

 「道頓堀」は大阪市中央区の大阪きっての繁華街であり、ここの北側を流れる道頓堀川の略称でもある。

 道頓は戦国末期から江戸時代初期にかけての商人だった「安井道頓」のことであり、道頓堀川を開削した人物でもある。かつての道頓堀川は湿地帯であったが、1612年道頓は物資の輸送や町の開発を目的として、私財をなげうち堀の開削に着手した。ただ、1615年に道頓は「大阪夏の陣」に豊臣方として参戦、戦死してしまう。彼の死後、道頓の一族らが作業を引き継ぎ、同年に道頓堀は完成した。

 その後、この地を治めたのは当然ながら徳川方だ。大阪城主となった松平忠明は完成した運河を安井道頓に敬意を表し「道頓堀」と命名したのである。

 適切なつみたて投資の家計への組み入れ ②iDeCoを優先するケースの日本橋北詰交差点北東角に「贈従五位安井道頓、安井道卜紀功碑」とある石碑が建立されている。