【Vol.236】知って得する、ちょっと差がつく トリビア・コーナー

トリビア研究家 末崎 孝幸

末崎 孝幸氏

1945年生まれ。1968年一橋大学商学部卒業、同年日興證券入社。調査部門、資産運用部門などを経て、日興アセットマネジメント執行役員(調査本部長)を務める。2004年に退職。Facebook上での氏のトリビア投稿は好評を博している。

忘れな草

「忘れな草」は中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因む花である。

忘れな草

騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を振り絞って花を岸に投げ、「Vergiss-mein-nicht!((僕を)忘れないで)」という言葉を残して死んだ。 残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。この伝説から、この花の名はドイツで「フェアギスマインニヒト(Vergissmeinnicht)」と呼ばれ、英名もその直訳の「フォーゲットミーノット(Forget me not)」となった。日本では、1905年(明治38年)に植物学者の川上滝弥によって初めて「忘れな草」と訳された。花言葉の「真実の愛」「私を忘れないで」も、この伝説に由来する。

サッカーのスローインは、なぜ両手でやるの

サッカーでは、ボールがタッチを割ると、両手でボールを投げ入れて競技を再開する。これが「スローイン」だが、このスローインは、当初は両手ではなく片手だった。

これが両手になったのは140年前の1882年。イギリスのウィリアム・ガンという強肩の選手の登場で、ルールが改正されたのである。クリケットの選手でもあったガンは、片手投げで60ヤード(約54m)もボールを投げることができた。こうなると、肩の強い選手がいるチームにとって、スローインは強力な攻撃の武器になり、スローインから直接ゴールを狙うこともできる。

しかし、こうした点の取り方が可能では、サッカーではなくなってしまう。このため、スローインの攻撃性を弱めるために両手で投げ入れるルールが採用されたのである。

「亡命」はどうしてこんな字なのか?

「命」を「亡くす」と書いて「亡命」。 政治上の理由で本国を抜け出し他国に逃亡するという意味だが、どうしてこんな字を書くのだろうか?

この場合の「亡」は囲いを隠すさまを示す文字であり、「あったものが姿を消す」という意味。また「命」は生命ではなく「戸籍」を意味する。戸籍から抜け、姿を消すから「亡命」である。

幻のノーベル賞(山際勝三郎)

山際

よく知られているように日本人初のノーベル賞は昭和24年(1949年)の湯川秀樹博士だが、戦前にも受賞に相応しい研究者は少なからず存在していた。日本細菌学の父・北里柴三郎、ビタミンの発見者・鈴木梅太郎、細菌学の野口英世、腫瘍学の佐々木隆興、フェライトの父・武井武等々・・・なかでも人工癌の発見で知られる「山際勝三郎」はノーベル賞に最も近かった病理学者だ。

堀口九萬一とメキシコ革命

1913年(大正2年)2月9日、メキシコ革命の最中、悲劇の10日間と呼ばれる軍事クーデターがあった。フランシスコ・マデロ大統領に対するウエルタ将軍によるクーデターであり、マデロ大統領の父母・子供たちが日本大使館に駆けつけ、一族の親しい友人であり、また臨時代理公使であった堀口九萬一に庇護を求めたのである。

堀口臨時代理公使は、ウエルタ将軍一派が日本公使館を攻撃すると見られていたにもかかわらず、武士道精神から将軍一族を保護した。クーデター後、マデロ大統領及び政権関係者は殺害されたものの、大統領の家族は無事に公使館を出ることができた。この堀口臨時代理公使の人道的対応は、メキシコ国内において高く評価され、政権に就いたウエルタ大統領自身からもサムライ外交官として称賛されたのである。

なお、2015年にメキシコ上院議会で九萬一の人道的対応に対する除幕式典が開催され、その記念プレートには「1913年2月の苦難の日々における、その模範的な生き方とマデロ大統領家族に対する保護に関して、堀口九萬一と偉大な日本国民に捧げる」と刻まれている。

また、フランス文学者で詩人・歌人である堀口大學は、九萬一の長男である。