【Vol.242】知って得する、ちょっと差がつく トリビア・コーナー

トリビア研究家 末崎 孝幸

末崎 孝幸氏

1945年生まれ。1968年一橋大学商学部卒業、同年日興證券入社。調査部門、資産運用部門などを経て、日興アセットマネジメント執行役員(調査本部長)を務める。2004年に退職。Facebook上での氏のトリビア投稿は好評を博している


 

「Geisha」名のチョコレー

ゲイシャ

フィンランドに「Geisha」という名のチョコレートがある。老舗の大手菓子メーカー・Fazer(ファッツェル)社の商品で、至るところで売られている。
1905年の日露戦争当時、フィンランドは独立を希望しながらも、ロシアの統治下におかれていた。アジアの小国である日本の勝利が独立への希望をもたらしたといわれている(その後、フィンランドは1917年ロシア革命の混乱に乗じて独立を宣言した)。
Fazer社のウェブサイトによると、1908年に発売したキャラメルにGeishaという名前をつけていたが、1962年新しいチョコレートを発売するにあたりGeishaの名をつけ、Geishaキャラメルは「Tokyo」となった。

コーヒーの漢字はなぜ「珈琲」と書くのか

コーヒーは江戸時代末期にオランダ人が持ち込んだといわれ、長崎の出島でコーヒーが飲まれていたという記録が残っている。そして、オランダ語のkoffieに漢字の「珈琲」の字を当てたのは、津山藩の藩医で洋学者の宇田川榕菴(うだがわようあん)といわれている。
榕菴は「コーヒーの赤い実」がなっている様子から、「珈」は女性の髪につける玉飾り、「琲」は玉飾りの紐の意味があることからこの字を充てたのである。
追記:宇田川榕菴は医学や化学などの翻訳を行い、「酸素」「水素」などの新しい言葉を生み出した人物としても知られている。また、津山市では現在「榕菴珈琲」というコーヒー豆を販売している店がある。

尖閣諸島小史

  • 明治10年代、古賀辰四郎氏(福岡県出身の実業家)は、茶販売や夜光貝(ボタン材料)の事業で成功、石垣島に支店を出す。
  • 明治10年代半ば、石垣島の漁師たちの間で、尖閣諸島に無数のアホウドリがいるという噂が広がる。
  • 古賀氏は島に調査隊を派遣、その結果、アホウドリだけでなく漁場としても有望と判断し、開拓許可を1885年(明治18年)日本政府に申請。すぐには許可は下りなかった。政府は周辺海域を調査し、島が清国など他の国の支配下にないことを確認、1895年に尖閣諸島の領有を閣議決定。古賀氏の申請から約10年後の1896年(明治29年)に、政府は30年間の無償貸与を許可。この1895年は下関条約が締結された年であり、このとき遼東半島、台湾、澎湖諸島などが日本に割与された(ただし、遼東半島は三国干渉によって返還)。また、尖閣諸島は下関条約の対象ではなく、話題にもなっていない。
  • 古賀氏は1897年(明治30年)以降、大規模投資を行い、島の本格的開拓に着手した。アホウドリをはじめとする海鳥の羽毛採取、フカヒレ、ナマコ、珊瑚などの採取、さらには近海がカツオの好漁場だったため、鰹節工場も建設、ピーク時の1909年(明治42年)には248人が定住していた。
  • 1918年(大正7年)古賀辰四郎氏死去(63歳)、息子の善次氏が後を継ぐ。
  • 1919年(大正8年)中国の漁民31人が尖閣諸島沖で遭難、古賀氏所有の船で救助される。翌年中国政府より「日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島」宛てに感謝状が贈られる。
  • 1926年(大正15年)、30年の借地期限が切れたので、古賀善次氏は1931年(昭和6年)払い下げ申請し、翌年許可される。
  • 1940年(昭和15年)油の配給が絶たれ、工場閉鎖となり・・・島は元の無人になった。
  • 1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約によって、沖縄の一部として米国の施政下に入る。
  • 1969年(昭和44年)国際連合アジア極東経済委員会による海洋調査で、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告される。
  • 1971年(昭和46年)4月 台湾が公式に領有権を主張。
  • 1971年(昭和46年)12月 中国が外務省声明で初めて領有権の主張をしたとされる。
  • 1972年(昭和47年)5月沖縄返還協定が発効、尖閣諸島は再び沖縄県となる。(古賀家に戻る)
  • 1978年(昭和53年)古賀善次氏死去(84歳)、(子息がいないこともあり)未亡人古賀花子氏が島を埼玉県の地主・栗原家に売却。
  • 2012年(平成24年)9月11日、日本政府は魚釣島、北小島と南小島の3島を埼玉県に所在する地権者(栗原家)から20億5千万円で購入し、日本国への所有権移転登記を完了。

アート・ブレーキ―の子供の名前

アートブレイキー

燃えるドラムで世界を熱狂させたジャズの巨人・アート・ブレーキ―は親日家として知られている。初来日したのが昭和36年(1961年)、この時ファンから写真をせがまれ、「俺は黒人だぞ。写真を一緒に撮ってもかまわないのか?」と聞き返し、ファンが「知ってます。是非一緒に!」と答えたことに驚喜したのである。
アメリカでは黒人に対する差別が公然と行われ、選挙権すらなかった時代である。これに感銘を受けたブレーキ―は度々来日するようになり、日本人ドラマーの(ほら吹きジョージこと)ジョージ川口たちともドラム合戦を繰り広げた。
後年、彼は「私は今まで世界中を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。何よりもうれしいのは、アフリカを除いて世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ」と語っている。そして自分の息子の名を「Taro(太郎)」と名付けたのである。1990年没(71歳)。
・写真はWikipediaより

なぜ明石市が日本の標準時なのか

日本の標準時子午線は東経135度、兵庫県明石市を通っている。明石市は日本の中心より少し西に寄っているが、なぜ標準時になったのだろうか。
世界の時刻の基準となる子午線がイギリスのグリニッジ天文台を通る子午線(経度0度)に決定したのは、1884年(明治17年)のこと。これを受けて日本では2年後の1886年(明治19年)に明石市を通る東経135度を日本の標準時子午線と決定し、日本の時刻は決定された。
明石市が選ばれたのは東経135度が「15」で割り切れる数字だったからだ。地球一周の360度を24(時間)で割ると15度となり、経度15度ごとに1時間の時差が生じることになる。東京の少し東側の東経140度を標準にすると、世界標準時と9時間20分という中途半端な時差になってしまう。このため、明石市が日本の標準時になったのである。
(追記)東経135度の標準時子午線上にある自治体は、明石市のほか、京都府の京丹後市、福知山市、兵庫県の丹波市、西脇市、淡路市など12である。