【Vol.233】知って得する、ちょっと差がつく トリビア・コーナー

トリビア研究家 末崎 孝幸

末崎 孝幸氏

1945年生まれ。1968年一橋大学商学部卒業、同年日興證券入社。調査部門、資産運用部門などを経て、日興アセットマネジメント執行役員(調査本部長)を務める。2004年に退職。Facebook上での氏のトリビア投稿は好評を博している。

割り勘の考案者は?

山東京伝
山東京伝

 江戸時代の後期まで仲間と飲食する時の支払いは代表者が総額を支払うのが一般的だった。しかし、商売人でもあり、金銭勘定に細かい山東京伝は、総額を参会者の人数で割って支払う方法を考案、この方法は「京伝勘定」と呼ばれるようになった。「割り勘」という言葉が定着するようになったのは大正時代後期になってからである。

 (追記)山東京伝は江戸時代後期の戯作者、浮世絵師。現在の銀座一丁目に紙製煙草入れ店を開き、自らデザインした煙草入れが大流行したこともある。寛政の改革では、出版統制によって50日の手鎖の刑を受けたことでも知られる。

・似顔絵は山東京伝(Wikipediaより)

乾杯は牛乳と決まっている町がある

 北海道中標津町は人口22,980人に対し、乳牛は39,000頭と、人よりも牛のほうが多い酪農の町である。

飲み会での乾杯はとりあえず牛乳となっている。結婚式でもテーブルの上には牛乳があり、ビールがあるにもかかわらず、新郎新婦も含めて乾杯は牛乳で行われる。そして、出席者全員が一斉に牛乳を飲み干す。

これは酪農の町・中標津町が牛乳をアピールするため、8年前の2014年に通称「牛乳で乾杯条例」(中標津町牛乳消費拡大応援条例)を作ったためだ。ただ、条例に罰則規定はなく、強制ではない。酪農の町を広くアピールして、牛乳の消費拡大を狙ったものである。

最高級の将棋盤には日本刀が使用されている

日本刀を使う将棋盤づくりはたった1人の職人によってその伝統の技が継承されている。その職人は埼玉県行田市にある吉田碁盤の三代目・吉田寅義さん。彼の手によって作り出された最高級の将棋盤は多くのプロ棋士に愛され、タイトル戦の舞台でも使用される。また、その将棋盤は100万円以上の価格で取引されている。

江戸時代から脈々と受け継がれている技とは、日本刀を使って将棋盤の目を刻むことである。これは江戸時代の「太刀盛り」という目盛りづけの技で、切れないように刃先を丸く加工した日本刀に漆を塗って将棋盤に升目を付けていく。

最高品質とされる太刀盛りの将棋盤と印刷の将棋盤を見比べると、その違いは歴然で、太刀盛りの方が線が細く立体的に見える。反りを利用して刀が入り、刀が離れる時に漆が刀から落ちて表面張力により丸い球形の線の連続になる。この技法が生まれたのは江戸時代で、身近にある物で一番真っ直ぐな物が日本刀であったことから生まれたのである。

豚もおだてりゃ木に登る

豚もおだてりゃ

 おだてられたときに舞い上がることを「豚もおだてりゃ木に登る」というが、これは昔からあったことわざではなく、「タイムボカンシリーズ」の「ヤッターマン」から世に広まったギャグのひとつ。

この言葉は、「タイムボカンシリーズ」のメインスタッフだった笹川ひろし氏が昭和20年代、子どものころに住んでいた会津若松で使われていた言葉だったが、ギャグのひとつとして引用したのである。笹川ひろし氏が見い出し、全国区へ広がったことわざといえよう。(ただ『岩波ことわざ辞典』には「ことわざとしての市民権を得ていない」旨の記述がある」)

学校の校庭にはなぜ桜が植えられているのか?

明治政府は教育政策の基礎を国学に求めた。そのために、江戸時代の国学者・本居宣長が詠んだ「敷島の大和心を人問はば 朝日ににほふ山桜花」という歌が広く親しまれるようになった。そして、桜は日本精神をあらわす花になったのである。

 そこに目をつけたのが軍部。パッと咲いてパッと散る桜は、いさぎよく散る軍人のイメージと重ねあわされ、日本軍人の象徴となった。こうして各地の陸軍兵舎に桜が植えられたのである。

また、日清・日露戦争の勝利によって軍部が力を持つようになると、子供たちにも桜を通して軍人精神が教え込まれるようになった。こうして桜は、学校の校庭にも植えられるようになったのである。