【Vol.274】FIWAサロイン塾講演より(講演)
日本証券全史
特定非営利活動法人 みんなのお金のアドバイザー協会 代表理事 会長
ファイナンシャル・ヒーラー 兼 投資教育家
岡本 和久CFA
レポーター:赤堀 薫里
(以下は9月21日に開催された第五回サロイン塾での岡本の講演の全編(戦前編)部分を要約したものです)
150年近くになる日本の株式市場。その時の社会の情勢も併せて、多くの山や川を乗り越えて今日に至っているマーケットの推移をお話します。 日本で株式取引所が開設されたのが明治11年、西南戦争の翌年である1878年です。147年の長い歴史があります。戦後はそれなりに指数が計算されていましたが、147年前から今日までの一貫した株価指数が存在しなかった。私の証券市場へのお返しとして、いつかそんな指数を作成するプロジェクトを実現したいと思っていました。そこで2016年に明治大学の三和裕美子教授に話をしたところ、「ぜひやりましょう」という話になり、明治大学の中に日本株価指数研究所が設立され、プロジェクトがスタートしました。(このデータベースは近々、外販予定です)
2018年に三和・岡本日本株価指数が完成。147年間のパフォーマンスを価格指数で見ると84万倍、配当を再投資した場合の指数は897万倍となりました。長期で保有しているとものすごく大きな収益になるものです。そして配当金は再投資していかなくてはいけない。
その時その時で大きな暴落局面はありますが、みんな小さなギザギザです。あまり慌てることはない。時に長く続いても、その後は、逆に大きく上がるというような傾向が見られるわけです。Buy and Holdは当然だけど、Buy and Forget。買ったら後はほっときなさい。忘れてしまいなさい。これがやはり「勝者のゲームじゃないかな」と思っています。
全期間の株価推移をみていると戦前と戦後の指数の動きが似ていることがわかります。さらに、バブル崩壊後の長い構造不況を経て新値を更新した市場は、新しいサイクルに入っているようにも見えます。人間にも揺籃期、成長期、成熟期、衰退期があります。幼い時、それからどんどん成長していく時。働き盛り、衰退期。体力はだんだん弱るけれども、体力を使わないで社会貢献ができるような時期。相場は人間が作っているものです。相対としての人類が作り出している株価は、やはりこのようなサイクルがあるのかなと思います。
まず、戦前のカントリー・ライフ・サイクルを揺籃期、成長期、成熟期、衰退期で見てみます。揺籃期は富国強兵、殖産興業。成長期は世界の列強の仲間入りをしたい。成熟期は領土を拡大したい。そして衰退期は軍部が政治を支配して国家総動員法が出てきます。非常に苦しい時代を迎えることになりました。江戸時代にも日本には堂島に米会所がありましたが、これはヘッジや投機を目的としたものであり、必ずしも資産運用というものではなかったので、ちょっと性格が違うのではないかと思います。
明治維新には「西洋に学びつつ、西洋から日本を守る」というビジョンと、「富国強兵、殖産興業、社会変革、資金調達」という大きなミッションが設定されました。殖産興業に関しては秩禄処分、地租改正、銀行制度、株式会社制度などの新制度、旧制度の廃止と大幅な改革が行われました。
幕府がなくなってしまったため、士族が解体されます。身分制度が廃止され、武士だけではなく庶民も兵隊になった国民皆兵。お侍さんの特権として持っていた刀も廃刀令が出されます。さらに、藩をやめて県にする廃藩置県。そして秩禄の公債も発行されました。お侍さんが幕府や藩からもらっていた禄は出なくなりました。これは大変な出来事でした。それでは武士の生活が困ってしまうので定期的な禄の代わりに債券を渡しその金利で生きていけというわけです。
しかし、とても金利だけでは生活ができない。旧武士のなかには債券を豪商などに売却し売却代金で小さな商店などを始めるものもでてきた。しかし、「武士の商法」と言われたようにうまくいかない。また債券を売却する際にも百戦錬磨の豪商などに買いたたかれる。不当に安い値段になっていたこもありました。そこで公正な価格付けがなされるようにというのも取引所が設立された大きな理由でした。それもあり初期は株式よりも債券の取引が多かったようです。
西南戦争で非常にたくさんの資金が使われ、それがインフレを引き起こしました。政府はインフレを抑えるためにかなり強硬に金利の引き上げや、経済の縮小政策をとった。そして資本主義のもとで恐慌が起こりました。これが資本主義体制の中で日本で起こった最初の恐慌だったと言われています。
明治の初めぐらいの一番有名な戦争は日清戦争と日露戦争です。日清戦争は、遼東半島、あるいは朝鮮の支配権を清(中国)が取るのか、日本が取るのか。結局、日清戦争では日本が勝利し、当時の日本の国家予算の4年分に相当する大きな賠償金をもらいました。しかし、日本からの遼東半島を割譲せよという要望は、ロシア、フランス、ドイツの3国から三国干渉を受け、日本は遼東半島を返還しました。これは「今は苦しくても我慢をする時なんだ」という意味で臥薪嘗胆という言葉がはやりました。ある意味、この苦い経験から列強に並ぶ国造りにまい進することになりました。
日露戦争は、日本に支配される度合いがだんだん高まってくることに危機感を覚えた朝鮮の王室がロシアにアプローチして、日露戦争が始まりました。二百三高地(旅順)の陥落や、奉天の占領、日本海海戦でバルチック艦隊に勝利したということが有名です。このようにして一応、日本は勝ったということで、ポーツマス条約を結びました。ただロシアもなかなか簡単に納得はしません。「日本は一歩だってロシアの領内に入ってきていない。外で戦い、勝ったと言っても、それは戦争に勝ったことにはならない」という議論をロシアは盛んに言いました。
結局一番大きな成果として非常に有利な条件で鉄道事業の国有化、事業化ができるようになります。その鉄道事業は遼東半島にまで至ります。これが後の満州鉄道になるわけです。
その当時の株価の動きを見ると、日清戦争の頃は「日本は勝つかな?負けるかな?」というような動きでしたが、終わった頃からだんだん良くなってきた。三国干渉もあったけれども、それでも株価は上がってきた。その後、日露戦争が勃発。最初は日本がすぐやられるのではないかと思っていたのが、二百三高地を占領したところでどんと上がって、日本海海戦でまたぐんぐん上がった。
結局、明治のこの時代であっても、株式市場はそれなりにその時々の出来事を敏感に反映しているということを感じるわけです。株式市場は、やはりすごいんだな、ということを実感します。講演では、鉄道と鉄道株の歴史や、第一次世界大戦バブルとその崩壊について解説。また第2次世界大戦における戦況をアメリカ株、日本株ともに株価が忠実に反映しているという大変興味深いお話をされました。
講演当日の動画は以下のサイトからごらんいただけます。
https://reccloud.com/jp/u/ow8zasb
(文責FIWA®)




